江戸東京野菜について
深大寺在来(ソバ)
由緒はいくつか存在するが、調布市観光協会によると、江戸時代、土地が米の生産に向かなかったため小作人が蕎麦を作って、蕎麦粉を深大寺に献上した。それを寺側が蕎麦として打ち、来客をもてなしたのが始まりといわれている。
深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王はこの蕎麦を非常に気に入っており、「献上蕎麦」でもあった。また、徳川第三代将軍徳川家光は、鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って蕎麦を食べ、褒めたとされている。
享保の改革時には、地味の悪い土地でも育つ蕎麦の栽培が深大寺周辺で奨励された。
江戸時代後期には太田蜀山人が巡視中に深大寺そばを食し、それを宣伝すると知名度が上がり、文人や墨客にも愛されるようになった。『江戸名所図会』にも「深大寺蕎麦」が記載されるなどして更に名が広まり、生産も増えていった。
深大寺蕎麦の事
深大寺 開僧満劫(ママ)上人、法相宗也。仁王四十五代正武皇帝 天平五酉年開寺也。清和天皇貞観二年、七村を寄附し玉ふ。今は台宗也。寺領四十石。江戸より行程六里。末寺八十ヵ寺ありとぞ。今、深大寺の住僧の談を聞に、近年世上に深大寺蕎麦流布し高名なるにや、十八年以前官家よりそばの事を有御尋けり。其時の住僧云、五十年斗り以前上野大明院様御時、境内より作り出せるそばを献ぜし事あり。其蕎麦を被召上しに、其風味甚他に異なりとて、御風聴甚しかりしとなり。其時より名高くなりしと也。近辺より多く作り出せども、境内のそばは少し異成形ありとなり。深大寺境内蕎麦作れる処は、二町ばかりの処なりとぞ。
現代語訳「蕎麦全書 伝」(2006.7.1 ハート出版)より