江戸東京野菜について

東京ウド

 ウドは数少ないわが国原産の野菜の一つで、古代から自生のものが利用されていました。
 武蔵野八幡宮周辺は旧武州多摩郡吉祥寺村として、江戸時代より畑作農業が盛んな所でした。記録によれば、この地で栽培されるようになったのは、江戸時代後期の天保年間(1830〜44)とされています。
 五日市街道に面していたので、江戸との交流も多く、野菜や薪の供給地でもありました。(吉祥寺ウド)
 また、井草八幡宮を中心とする地域は、武州多摩郡遅野井村として古くより開けました。この地で栽培されたのは江戸時代後期で、記録によれば文政年間(1818〜30)旧武州多摩郡上井草村寺分(現在の杉並区西荻北)の古谷岩右衛門が尾張(現愛知県)で栽培法を習い、試した結果、立派なウドができたので付近一帯に広まっていきました。
 江戸時代に入ってからは、青梅街道を通じて野菜の生産や薪で生計をたてる農村として発展しました。(井萩ウド)
 昭和23年(1948)から、高橋米太郎氏が横穴を掘って穴蔵でのうど軟化法の研究に本腰を入れて取り組みました。昭和26年(1951)の1月になって、軟化うど560キログラムをいままでより一ヶ月も早く市場に出荷しました。高橋氏の出荷した軟化うどは全く土がついておらずまっすぐに育っていて、そのできばえの良さに卸売りの業者たちは高い評価を与えたといいます。
 高橋の考案したうど軟化法は北多摩地域に広まり、昭和30年(1955)に実用新案を申請し、昭和35年(1960)に「軟白野菜促成穴蔵」として認可を受けました。
 この軟化法は他の産地にない独特のもので、軟化うどは日本料理向けの高級食材として受け入れられました。
 なお、武蔵野市境の玉川上水には昭和40年(1965)に"うど橋"がかかり、橋の南側たもとには、うど記念碑が建てられています。

代表的な取り扱い地区のJA

JA東京むさし http://www.jatm.or.jp/
JA東京みどり http://tokyomidori.jatokyo.or.jp/