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【江戸東京野菜を語る ⑪ 】地下に生きる江戸東京野菜 「東京ウド」を継ぐ~山下農園、山下明氏のナラティブストーリーとは

 

 

 

 地上からは、ほとんど見えない。だが冬の東京の土の下では白くやわらかな一本が静かに伸びている。江戸東京野菜の一つ東京ウドだ。その栽培手法は作り手の感覚と時に危険と隣合わせの地下労働の積み重ねが支えてきた〝見えない文化〟ともいえる。今回、取材で訪ねた立川市にある山下農園を経営する山下明さん(61)は東京ウド栽培の二代目だ。かつては築地市場への出荷を軸に夏ウドまで手がけ1年の大半をウドとともに過ごす時代があったという。
 しかし、時代は変わり販路は市場から直売へ。さらに栽培する畑がないという現実が東京ウドの背中を押し下げる。農地を借りるにも手続きと調整が伴う。増産すれば報われるという構図も崩れ、市場の変化は東京で作る意味を作り手に問い直している。東京ウドは独特の食感があり意外なほどやわらかい。皮はきんぴらに穂先は天ぷらにと捨てるところがなく、本来は贈答品であり高級品として扱われるべきだという。
 ただ、東京ウドには決定的な弱点がある。それは見えない、ことだ。地下で育てる苦労も酸欠の危険も、温度と換気を身体の感覚で見極める職人技も消費者には届きにくい。だからこそ山下さんは、地下の現場を見える化する施設の構想を語る。東京ウドの未来は地下から地上へと価値をどう伝えていくか。地下栽培の現場を知り、味を知り、価値を認めてもらう。そんなナラティブの積み重ねによって東京ウドは次世代へ受け継がれていく。

(聞き手:星槎大学客員教授・元東京都知事特別秘書 石元悠生)

 

江戸期から続く山下農園のルーツ

東京ウドへの想いを語る山下明さん

「実は、はっきりした家系図は残っていないのです。昔、火事があって古い記録が焼けてしまったと聞いています。ただ、口伝えでは、この土地に来たのは寛永の頃とずっと言われてきました。このあたりは当時、新田開発が進められていた地域だったそうで先祖はその開拓に関わり、この地で農業を始めたのだろうと聞いています。家の中には古い写真が残っていて代々農業を営んできたことだけは確かだと聞いています。何代目かは分からず、正確な年表はなくても畑や土地や語り継がれてきた話がここで農業が続いてきた時間の長さを物語っているのだと思います」

「ウドの栽培は父の代からです。私が生まれる前には、もうすでに作っていましたから家としては少なくとも六十年以上、ウドと付き合ってきたことになります。記憶にある限り、物心ついたときには冬の仕事としてウドが当たり前にありました。冬になると土の下に潜って白いウドを出す。その作業が家の暦として回っていたという感じです。ウドの栽培は立川だけで始まったというより、武蔵野や国分寺あたりで作っていた人たちがいて、親戚筋や知り合いづてで少しずつ伝わってきたらしいんです。ウドってタネをまいて終わりではなく株を育ててまた株を分けて次につなぐでしょう。だから結局、株が動くことで広がっていく。父は『そうやって増えていった』と話してました。それから、立川の土がウドに合っている、というのは昔から言われてきました。関東ローム層で粘土質のところがあるので水持ちがいい。地下で育てる作物ですから乾きすぎてもだめだし、逆に水が抜けすぎてもだめで、その加減がウドの出来に直結します。ここは土の性質として、その加減がつくりやすい土地なのです。だから立川はウドに向いていると言われてきたし、実際にウドをやる農家が一時期は増えたのだと思います」

人生の転機は父の事故 会社員から地下の栽培現場へ

「いえ、最初から農業を継ぐつもりは全くありませんでした。私は測量会社に勤めていて普通に会社員として働いていました。外での現場仕事ではありましたけれど、農業とはまったく違う世界でしたし、自分が家業に入るという意識はその時点ではほとんどなかったです。転機になったのは父の事故です。ウドを市場に出荷するためにトラックに積み込みをしていたとき、荷台から滑り落ちてしまって足を複雑骨折したのです。突然のことで、出荷の予定はすぐに控えている。それで手伝いに入ることになりました。ところが、地下の穴に入ってウドを切り出す作業なんてそれまで見たこともありませんでした。父からは『穴に入って切ってこい』と言われるのですが、どこをどう切ればいいのかも分からない。とにかく見よう見まねでやるしかありませんでした。兄は農業を継ぐ気持ちがなかったので、会社を辞める決断も正直なところ最初から覚悟していたわけではありません。ただ、現場に入っていくうちに気持ちが少しずつ固まっていった、というのが実際のところです」

「初めて地下の穴に入ったときのことは衝撃的でよく覚えています。地上の畑とはまったく違う世界。暗くて狭くて土に囲まれている。その中で白いウドがずらっと並んでいるわけですが、まず、ここで作業するのかという驚きがありました。作業は単純に見えて、実際には体力も時間もものすごくかかります。穴に入ってウドを一本ずつ切り出し、根を処理して、地上に運び上げて箱詰めをする。そこで終わりではなく、そのまま築地市場へ出荷です。市場に持って行って、ようやく一日の仕事が終わる。帰ってくるのは夜遅くになってからで食事をして寝て、翌朝また同じ作業が始まる。

自宅のすぐ近くにあるウド室の入口を指さす山下明さん
(光が入ると色が変わるの開けない)

当時は築地市場に直接持って行っていました。市場に着くと料亭や旅館の方が買いに来てくれるのです。相場が良い日には驚くほどの値段になることもありました。一日で五十万円、八十万円になることもあって、父の時代は電話がかかってきて、その日の売値について話すのが楽しみだったそうです。良いときは本当に夢がありました。重労働ではあるけれど、その分のやりがいや高揚感が確かにあった時代だったと思います」

東京都の多摩地域で一般的な横穴式軟化室の形状
横穴の部分に根株を伏せる。
引用:横穴式軟化室「東京うど物語」図15、 83頁
(東京うど生産組合連合会企画・発行、1997年)

昭和の終わり市場崩壊 多品目への大転換

「大きな転機だったのは昭和の終わりですね。昭和天皇が崩御されたとき、世の中全体が自粛ムードになりました。料亭や宴席が控えられるようになって市場の動きが一気に変わってしまったのです。ウドはもともと料亭や旅館でよく使われる野菜でしたから、その影響をまともに受けました。それまで四キロ六千円ほどしていたものが、年が明けた途端に九百円です。桁が一つ違うと言っていいほどの落ち方でした。正直、出荷してもガソリン代すら出ない。市場へ持って行く意味が分からなくなるほどの衝撃でした。あの出来事をきっかけに市場にすべてを頼る形では社会の動き一つで収入が大きく揺れてしまうと感じて、そこから市場出荷を徐々に減らして直売所での販売やウド以外の野菜も作る多品目栽培へと少しずつ切り替えていきました。冬はウド、夏は夏野菜、冬の露地では大根やほうれん草など季節ごとに作物を分散させていく形です。時代が変わったということを現場で実感した瞬間でした」

「まずは生で食べていただきたいです。皮をむいてスティックのように切れば、そのままかじることができます。大根ともセロリとも違う、東京ウドならではのやわらかさと香りを一番感じていただける食べ方だと思います。そして、ウドは捨てるところがありません。皮はきんぴらにするととてもおいしいですし、穂先は天ぷらにすれば香りが引き立ちます。一本まるごと楽しめる野菜です。本来、東京ウドは贈答品として扱われてきた野菜。手間をかけて地下で育てる特別な作物だからこそ季節の贈り物として大切な人に届けていただきたい。そうした形で、多くの方に味わっていただけたらうれしいですね」

地下栽培の現実と危険性

「大きな課題は畑の問題です。ウドは同じ畑で続けて作ることができない、いわゆる連作が難しい作物なのです。ですから、毎年同じ場所で作り続けることができず、畑を借りて回しながら栽培していく必要があります。ところが近年は相続などの影響で自分の畑が減り借りられる農地も年々少なくなってきています。農地を借りるには手続きや調整も必要で、簡単に借りて作るというわけにはいかない。作りたい気持ちはあっても、場所が確保できないという現実があります。もう一つ、あまり知られていないのが地下栽培の危険性です。地下の穴の中は密閉された空間ですから温度や湿度、換気の状態を常に気にしなければなりません。実際、酸欠で倒れそうになったことがあります。穴の中に入ったとき、体が急に締め付けられるような感覚があって急いで外に出たことがありました。温度計や機械を使えばある程度数値で管理できますが、昔からのやり方では最終的には感覚に頼る部分が大きいのです。火を入れて温度を上げ、換気のタイミングを見極める。そうした判断を誤ると危険につながります。地下での作業は静かで目立たない仕事ですが、実際には常に緊張感を伴う、いわば命がけの作業です」

ウド栽培の「理解」深める見学施設構想

「見学の希望そのものは以前から多く寄せられてきました。学校の授業の一環として、あるいは消防署の研修、地域の団体など、さまざまな方が、地下で育てるウドを見てみたい、と訪ねてきてくださったのです。東京で地下栽培が行われているという事実自体が珍しく、皆さんとても興味を持たれていました。ただ、実際に地下へ降りてもらうことには大きな課題がありました。穴へはしごで出入りする必要があり安全面の確保が難しいのです。万が一事故があっては大変ですし、見学を受け入れるには保険などの準備も必要になります。さらに、栽培の面でも問題があります。地下は光を遮断して白く柔らかなウドを育てる空間ですから、見学のために光が入ると色が変わってしまい、品質に影響が出てしまうのです。つまり、安全面と栽培環境という二つの理由から見学の要望があっても積極的に受け入れることができない状況が続いてきました。その経験を重ねる中で、地下に降りなくても栽培の様子を理解してもらえる仕組みが必要だと考えるようになって見学施設の構想につながっていったのです」

山下明さんのウド室内部
前年に育てた根株から真っ白な東京ウドが生育
収穫した東京ウドを木箱に入れて滑車を使って
地上に引き上げる

「例えば、ドアを開けて階段を少し降りると地下の穴を真っ二つにした断面が横から見えるような施設です。地下の栽培空間がどうなっているのか、ウドがどのように伸びているのかが一目で分かるような場所です。光が入りすぎないようにカーテンを設けて見学のときだけ開けて終わったら閉じる。そうした工夫をすれば栽培への影響を最小限に抑えながら見てもらえるのではないかと思っています。そういう場所があれば、ウドの値段の理由や生産の苦労は一瞬で伝わるはず。ウドはよく『高い』と言われますが、地下であれだけの手間と時間をかけて作っていることはほとんど知られていません。実際の現場を見てもらえれば、『これは高くて当然』と納得していただけると思います。見てもらうことが理解につながり価値を感じてもらう第一歩になると考えています」

観光資源としての栽培現場~ブランド価値の創出へ

「その可能性は十分にあると思います。地下で野菜が育つ光景というのは、普通の生活の中ではまず目にすることがありません。実際に見学された方は、皆さん本当に驚かれます。地上の畑とはまったく違う環境ですから、その意外性そのものが強い印象として残るのだと思います。見てもらうこと自体が東京の農業の魅力を伝える機会になります。都市の中で農業が続いていること、しかも地下で野菜を育てているという独自性は東京ならではの農業の姿です。地下栽培の現場を見て、そこで育ったウドを味わい、その価値を理解していただく。そうした体験の積み重ねが東京ウドのブランドを強くしていくのではないかと考えています」

「食育の面でも大きな意味があると思っています。いまの子どもたちは、野菜がどのように育つのかを実際に目にする機会が少なくなっています。スーパーに並んでいる状態が完成形になっていて、その背景にある手間や時間、環境の工夫まではなかなか想像できない。だからこそ、実際の栽培の様子を見てもらいたいと思います。地下で野菜が育つというのは、子どもたちにとっても強い印象として残るはずです。野菜は土の上で育つものという常識が覆される体験になりますし、そこから農業や食べ物への関心が広がっていくのではないかと期待しています。安全に見学できる施設があれば、授業や地域活動として多くの方に訪れていただけます。実際に見て、驚いて、理解する。その経験が、食べ物を大切にする気持ちや農業への関心につながり、教育的な役割も担える場所にしたいと考えています」

「とても大きいと思います。正直に言えば、魅力がなければ若い人は続けてくれません。地下での作業はきれいな仕事ではありませんし、体力も必要です。だからこそ、見学施設やブランドづくりは単に観光のためだけではありません。地下栽培の現場を見てもらい社会から必要とされている仕事だと実感できるようにすることが大切だと思っています。自分たちの仕事が多くの人に関心を持たれて評価される。その姿を若い世代が目にすれば、『この仕事を続けてみたい』と感じてもらえるのではないでしょうか。次の世代に技術を伝えるためには、まず仕事そのものに魅力を感じてもらうことが必要です。観光やブランドづくりは、その第一歩になると考えています」

令和8年2月に開催された
「令和7年度東京うど出荷改善共進会」の様子
山下明さんの出品ウドは東京都産業労働局長賞に輝く

※ 東京都の東京ウド生産者は各地区の生産組合に所属している。山下明氏が副会長を務める「東京うど生産組合連合会」は生産組合の相互の連携を密にして東京ウドの振興を図る目的で昭和29年結成。 令和7年現在、会員は武蔵野市うど生産組合5名、三鷹市うど生産組合1名、小平市うど生産組合3名、国分寺市うど生産組合7名、立川市うど生産組合15名、石神井うど生産組合3名の計34名。
※ 令和5年産東京都農作物生産状況調査結果報告書 東京都産業労働局農林水産部(令和7年3月)によるとウドの作付面積は11.9ha収穫量は145t