【江戸東京野菜を語る②】希望をつなぐ種の物語「早稲田ミョウガ」、伝統と気候変動のはざまで

かつて江戸庶民に親しまれ、将軍家の献立にも登場したという伝統野菜「早稲田ミョウガ」。早稲田周辺の畑で育まれたその赤く美しい姿と芳しい香りは、長らく江戸と東京の農と食文化を象徴してきた。しかし、都市化と気候変動の波にのまれ、20世紀後半には生産の記憶すら失われかけていた。そんな中、練馬の農家・井之口喜實夫氏(78)が地下茎の発見と育種に関わり、平成の世にこの“幻の野菜”をよみがえらせた。復活から十余年、今また「気温上昇」という新たな壁が立ちはだかる。練馬では栽培が困難になり、次なる活路を求めてたどり着いたのが伊豆諸島・三宅島だった。火山灰土壌と海洋性気候という条件が、種の保存に適するとされ、現在、試験的な栽培が進行している。本稿では、江戸東京野菜のなかでも特に「都市と自然」「気候と記憶」のせめぎあいを象徴する早稲田ミョウガの過去・現在・未来を追いながら、井之口氏の証言を通して、種を継ぐことの意味と覚悟を浮き彫りにしていく。
(聞き手:星槎大学客員教授・元東京都知事特別秘書 石元悠生)
幻の地下茎との出会い~ミョウガ復活のはじまり
― まず、井之口さんご自身と農業との関わりからお聞かせください。
「私は練馬で農業を営んでおりまして、三代目です。農家としてはもう60年以上やってきています。うちの家系は120年以上前からこの地に根を張ってきました。農業を継いだのは、長男だったからという理由もありますが、やっぱり自然を相手にする仕事が好きだったんですね。作物の成長を見るのが、子どもの頃から好きだったんです」

栽培を続ける井之口さん
― 早稲田ミョウガとの出会いは、どういった経緯だったのでしょうか?
「平成22年ごろ、農業関係者から『早稲田にかつてあった伝統のミョウガを探している』と話がありました。うちは平成14年までミョウガを作っていた家でしたので、『もしかしたら早稲田のどこかに残っているかもしれない』という期待をもって参加し、一帯を探しました。そしたら、たまたま旧家の庭で早稲田ミョウガを見つけ、それを譲り受けて栽培を始めました。本当に地下茎が出てきた時は感動しました。『まさか』と思っていたものが目の前に出てきてね。そこから、早稲田ミョウガの復活が始まりました。」
― 復活への道のりはどういったものでしたか?
「最初の3年間は正直、手探りでしたね。地下茎を8軒の農家に分けてお願いしましたが、残念ながら全て失敗。高温や乾燥、病気、育成管理の難しさ……さまざまな壁がありました。最終的にうちの畑に残った地下茎だけが生き延びて、そこから2年かけて選抜と育成を重ねて、ようやく商品として出せる品質のミョウガが安定して収穫できるようになりました」
― 復活を志したときの思いについて、もう少し詳しく教えてください。
「当時は、『昔のものをもう一度やるなんて難しいんじゃないか』という声も多かったんです。けれど、私は一農家として、“命のつながり”というものに大きな価値を感じてきた。種子や地下茎は、その土地の気候風土に適応してきた遺伝子の塊で、それを守り抜くことは文化の継承でもあると思ったんです。ミョウガ一つでも、そこにある物語を知ってもらえれば、地域の価値や歴史を見直すきっかけになるはずだと信じていました」
早稲田ミョウガの魅力~他の江戸東京野菜との違いは
― 早稲田ミョウガの特徴とは?

早稲田ミョウガ(花ミョウガ=若いつぼみ)
「最大の特徴は、やはり赤みの強さと丸みのある形状です。一般のミョウガよりも大きくて、香りが非常に高い。そしてシャキッとした歯ごたえもあって、味と香りと見た目、三拍子そろった品種だと思っています。とにかく料理人の方からの評判がよくて、『他にない風味だ』と言われることも多いんですよ」
― 他の江戸東京野菜との違いはどのあたりにありますか?
「江戸東京野菜は、それぞれに個性があります。練馬大根、寺島なす、内藤とうがらし……どれも復活の物語がある。けれど早稲田ミョウガは“完全に姿を消していた”という意味で、より難易度が高かった。地下茎という限られた生殖方法ゆえに、種苗の保存が非常にデリケートなんです。しかも見つかった地下茎はわずか。だからこそ、何としても守りたいと思ったんです」
― 生産が安定してから、どのように流通されているのですか?
「最初は早稲田周辺の飲食店を中心に扱っていただきました。ちょうど2011年に発生した東日本大震災の直後で、地域の商店街が復興支援と地域再生の意味も込めて、地元の食材を使った取り組みを始めてくださったんです。その流れに乗って、学校給食や漬物店、豊洲市場にも展開が広がりました。新宿区の学校給食では、一時期、早稲田ミョウガが配膳センターのメニューに加わったこともあり、地域教育の素材としても活用されました」
受け継がれる「早稲田」の名も練馬での栽培は困難
― 早稲田ミョウガを文化的側面として捉えてみると「早稲田」という名前の意味は?
「早稲田の名前には、ブランド力だけでなく、地域の歴史と誇りが込められています。実際に大学関係者の方やOBの方からも、『早稲田ってだけで買いたくなる』と言われます。商品名としてだけでなく、文化の伝承としても力を持っている。だからこそ、単なる作物ではなく“記憶を受け継ぐ野菜”として、この名を絶やしたくないと思っています」
― 現在、練馬では栽培が難しくなっていると伺いました。
「はい、それが今いちばんの問題です。特にこの3〜4年、夏の気温が上がりすぎて、もう畑の地温が40度を超えることもある。遮光ネットを50%、80%と使い分けたり、自動潅水で対応したり、できる限りのことはやりました。それでも根腐れが起きてしまった。ミョウガは暑さに弱いんです。今では正直、練馬での露地栽培は限界だと感じています」
希望を託した三宅島での試験栽培
― そこで伊豆諸島・三宅島での試験栽培に踏み切ったわけですね。
「そうです。最初に『もうダメだ』と判断したのは私で、そのことをJA東京中央会と早稲田の商店街に伝えました。中央会が間に入ってくれて、『どこか代替地で保存できないか』と相談する中で浮上したのが三宅島。火山灰質の土壌で水はけが良く、なおかつ気温が安定しているという特徴がある。種が外に簡単に流出しない“島”という環境も、保存には適していました」
― 三宅島の方々との関係性や交流はどのようにしていますか。
「中央会が現地を訪れた時、島の農家の皆さんがとても前向きで、『一緒に守っていきましょう』と言っていただいたと聞いて、心が動きました。三宅島は自然環境も厳しい部分があるけれど、その分、農に対する思いが強い。試験栽培を始めてからも、毎月レポートが送られてきて、現地の様子が写真付きで届きます。離れていても、同じ気持ちでこの野菜を育てているという連帯感があります」

― 最近の三宅島の栽培状況はいかがですか?
「2025年春に地下茎30本を植えてもらいました。現地の方々も真剣に取り組んでくださっていて、地元の農家さんとも連携を取りながら、丁寧に育てています。火山灰土壌の通気性の良さ、気温の安定性、雨量の多さなど、ミョウガにはかなり良い条件です。初年度はあくまで“試験的な栽培”ですが、これが軌道に乗れば、本格的な他地域栽培の拠点になる可能性もあると考えています」
〝命の遺伝子守る〟種の保存の取り組み
― 早稲田ミョウガの「種の保存」という観点では、どのように取り組んでおられますか?

「過去に地下茎を分けた結果、すべて枯れてしまったことがあります。ですから現在は、三宅島以外には一切地下茎を渡していません。早稲田ミョウガとしての形や色、香りをきちんと保つためには、しっかりと管理し、追跡できる形で保存していく必要があります。栽培者の名前を明確にし、栽培法も一元的に管理するべきだと考えています。“種を守る”とは『過去を引き受け、未来に手渡す』ということだと考えています。農家の仕事は、ただ作って売るだけじゃない。風土と対話し、文化を支え、未来につなぐこと。ときには経済的に見合わない作業もあるけれど、それでもやる意味があると思っています。実際、今の若い農家の中にも、こういう活動に興味を持つ人が増えてきています。大変だけど、やりがいはありますよ」
― 今後、練馬での早稲田ミョウガの復活の可能性はあるのでしょうか。
「将来的に気象条件が変わり、もう一度ミョウガに適した気候が戻れば、復活も考えたいです。ただ、ここ数年の傾向を見る限り、しばらくは三宅島が主軸になると思います。あとは施設栽培、冷房付きハウス、自動潅水などの導入も検討していますが、コストや土地の制約もあって、すぐには難しいですね」
次世代へ 守り伝えるということ
― 復活を通じて、見えてきた東京の農の可能性とは?
「一見、東京は農業と縁が薄いと思われがちですが、実は違う。都市の中にこそ、歴史や文化が凝縮されている。それを形にできるのが『江戸東京野菜』だと思うんです。都市農業だからこそ、伝統と向き合い、環境の変化と闘うことができる。早稲田ミョウガはその象徴のひとつだと私は思っています」
― 最後に、未来に向けた想いを教えてください。
「自然と共にある営みが、どれほど繊細で、かけがえのないものか。それを感じてほしいのです。野菜は気候とともに生きるものです。環境の変化には逆らえませんが、それでも守るべきものはある。早稲田ミョウガは、まさに「東京の伝統」の象徴です。三宅島での試験栽培は、単なる避難策ではなく、“生き残り戦略”なんです。次の世代にこの香りと色、形を伝えるために、私はこの野菜をあきらめたくない。種を守るということは、文化を守るであると信じています」

東京都農業祭共進会で何度も農林水産大臣賞に輝く
―― ありがとうございました。
<早稲田ミョウガとその復活の歩み>
●江戸期:早稲田周辺で広く栽培、将軍家献上とも伝わる
●明治末〜昭和初期:宅地化により衰退
●平成22年(2010):
早稲田大学の学生らが「ミョウガ探検隊」を結成、民家の庭に自生するミョウガを発見
●平成23〜26年:復活試験栽培、選抜育種
●平成27年以降:商店街・学校給食などで展開開始
●令和7年(2025):三宅島にて試験栽培スタート
<早稲田ミョウガ>
江戸時代、早稲田村はミョウガの産地としてその名を知られ、周辺の農家の人達は豊作祈願に穴八幡宮(新宿区西早稲田)を訪れていました。当神社の北を流れる神田川流域にはかつて水田が拓け、また、神田川へのなだらかな北斜面には、昔からミョウガが自生していました。ミョウガはショウガ科の多年草で、保水力がよく、しかも水はけのよい所で、品質の良いミョウガがそだちます。徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも紹介された早稲田のミョウガは、土地柄大振りで香りがよく、全体に赤みが美しいので、薬味のほか漬物や汁の具などに用いられました。ミョウガを食べると物忘れをするという言い伝えがあるものの、独特の風味は江戸庶民に好まれ、江戸後期には畑で栽培されていました。明治15年に大隈重信によって東京専門学校(後の早稲田大学)が創立された以降は、宅地化が進み、水田とともにミョウガ畑も減少の一途をたどり、今では早稲田のミョウガを味わう事はできなくなってしまいました。
(JA東京中央会 「東京農業歴史めぐり」より)