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【江戸東京野菜を語る ⑫ 】三宅島の暮らし支える「アシタバ」つなぐ歩み 生産者・廣井美和子さんのオーラルヒストリー

 

 

 

 東京の島嶼地域を代表する江戸東京野菜の一つ、アシタバ。伊豆諸島の人びとの暮らしのなかで日々の食卓を支え、現金収入をもたらす作物として受け継がれてきた。なかでも三宅島はアシタバの一大産地だったが、2000年の雄山の噴火による全島避難は島民の生活基盤を根底から揺るがした。農地も火山灰に覆われ、一時栽培が途絶えたアシタバは時間をかけて復活してきた。そのなかで、生産者を束ね出荷の仕組みを整えながらアシタバを支えてきたのが三宅島坪田地区で活動する三宅ハート会代表の廣井美和子さん(77)だ。廣井さんの歩みをたどると、そこには一人の生産者の経験にとどまらない島の復興の現場そのものが刻まれる。東京での会社勤めを経て島へ戻り商工会で地域を支え、全島避難のさなかには自身も大病を患った。避難生活、闘病、失職という苦境を経験しながらも帰島後は特産品づくりに乗り出し生産者の取りまとめ役として島の農業と暮らしをもう一度立て直すために奔走してきた。
今回のインタビューでは、廣井さんの生い立ちから、噴火と避難、病との闘い、帰島後の再出発、そしてアシタバに託してきた思いまでをじっくりと語っていただいた。その言葉の一つ一つから浮かび上がってくるのは、火山の島で生きることの厳しさであり、それでも土地に根を下ろし、作物を守り、暮らしをつないできた人々の歩みである。廣井さんの語りを通して三宅島のアシタバの復興の軌跡と、今岐路に立たされているその未来を見つめたい。

(聞き手:星槎大学客員教授・元東京都知事特別秘書 石元悠生)

 

全島避難と闘病、そして再出発への誓い

アシタバの復活と三宅島の農業のこれからについて
熱く語る廣井美和子さん

「高校卒業後に東京へ出て会社勤めを4、5年しました。若い頃は島を出て働く人も多かったですから私もその一人でした。島へ戻ってからは、最初はいろいろな仕事をしました。親族がガソリンスタンドをやっていたので、そこで7年ほど働き、その後に三宅村の商工会に入り20年以上勤めました。商工会の仕事は地域の商店や事業者の方々と関わることが多く、島の経済や暮らしの状況を間近で見る仕事でした。島の人たちがどのように暮らしているのか、どんなことで困っているのか、また地域をどう支えていけばいいのか、そうしたことを現場で学んできたように思います。振り返ってみると、あの時期に地域の人たちと深く関わりながら仕事をしてきた経験が後になってアシタバの仕事や地域の活動につながっていったのではないかと思います」

「みんな一斉に島を離れて東京に避難することになり東京へ出ました。その避難生活のなかで、甲状腺がんともう一つ、ファーター乳頭部がんという病気が見つかったのです。思いもよらないことで本当に驚きました。治療は大変で集中治療室に1カ月、その後に一般病棟に移って治療を続けました。結局、全部で5カ月から6カ月ほど入院していたと思います。振り返ると、本当に生きるか死ぬかというような状態でした。ですから、退院して外に出られた時には、『ああ、自分はもう一度生き返った』という気持ちでした。あの時は本当に命を拾ったという感覚でした」

噴火による全島避難は廣井さんの人生の
大きな節目となった。
(2000年9月4日、村民の避難する船を見送る
現地対策本部員)

「避難生活の中で治療を終えて少し落ち着いた頃に仕事のことも考え始めたのですが、戻ってみると商工会の方から『身体のこともあるのだから辞めたらどうだ』と言われたのです。結果、そこで職を失うことになりました。荷物を段ボールにまとめてタクシーに乗って帰ったのですが、悔しくて涙が止まりませんでした。病気になったこと自体も大変なことでしたけれど、そのあとに仕事まで失うとは思っていませんでしたから正直とてもつらかったです。その後にあの経験があったからこそ自分で何かを始めようという気持ちが生まれたのだと思います」

「まずは村役場や給食センター、JAなどに相談して特産品づくりで使わせてもらえる場所を探して歩きました。ただ、簡単には貸してもらえませんでした。そんな中で、JAさんが空いている敷地があるから使っていい、と言ってくださってそこで仕事を始めることができました。最初に取り組んだのは、アシタバの佃煮でした。ほかにも椿油や化粧品などを扱ったりもしました。また、当時は復興関係の仕事で島に来ている方が多かったのでお弁当づくりも始めました。最初は50個作って売れたらまた50個作る、というような感じで、だんだん忙しくなっていきました。気がつけば従業員も8人になっていて毎日とても慌ただしく働いていました。あの時期は本当に必死でしたけれど避難生活のなかで身につけた加工の経験があったからこそ、帰島後の再出発につながったのだと思います」

帰島後、アシタバの生産復活と出荷の仕組み構築

「きっかけは西友のバイヤーさんが三宅島に来られたことでした。アシタバの生産を支援したいということで、生産者をまとめてくれる人はいないか、という形で私に話が回ってきました。ただ、その時の私は大きく農業をやっていたわけではありませんでした。最初は戸惑いがありましたが、話を聞いているうちに、島の農業を支援しようというなら何とか形にできないだろうかと思うようになりました。三宅島の坪田地区には噴火前まで農協にアシタバを出荷していた生産者がたくさんいました。ですから、まずはそうした方々に声をかけてみようと思ったのです。一人一人に声をかけていったところ気がついたら20人近く集まっていました」

「一緒にやってみようかと言ってくれる方が凄く多かったです。それに、西友のバイヤーさんもとても前向きで『一箱でもいいし葉っぱだけでもいい。とにかく三宅のアシタバを支援したい』という姿勢で話をしてくださったのです。実際に始めてみると、最初から50箱、60箱くらいは出ていたと思います。大変な時期ではありましたが、島のアシタバをもう一度立て直したいという思いがあったのではないかと思います」

「帰島することになった時、東京都が農地に積もった火山灰を除去してくれたのです。ただし条件があって、除去した畑はもう一度耕作して復活させることというものでした。島の畑は一面火山灰に覆われていましたから、最初は本当にどうなるのだろうと思いました。でも、アシタバは火山灰が20センチくらい積もっても、そこからまた芽を出してくることがあるのです。ある程度、灰を取り除いてそこにまた種をまいていくと、少しずつですが畑がよみがえっていきました。私自身も空いている畑を借りて栽培に関わるようになっていきました」

三宅島のアシタバ畑。ハンノキの下で
栽培されていることが多い。
今日摘んでも明日には新芽が出るほど成長が早いので、
明日葉(アシタバ)と名付けられたと言われている。

生活支える島の〝江戸東京野菜〟その強みと厳しさ

「いちばん大きいのは、江戸東京野菜の中でも安定して収穫できる野菜だというところだと思います。アシタバは切っても三日か四日もすると、また新しい芽が出てきます。生命力の強さがある野菜です。それに、三宅島の火山灰の土壌にとても合っていると思います。伊豆七島のなかでも三宅島の出荷量が多いのは土地との相性がいいからではないでしょうか。それからアシタバはきちんと手入れをして出荷していけば安定して収入につながります。例えば、今は一箱出せば約4,000円になります。毎日一箱出すことができれば、それだけで生活の助けになりますし、月に5万円や6万円でも入ってくれば、年金生活の人にとっては大きいです。それに、アシタバは七十代や八十代の方でも畑の様子を見ながら少しずつ収穫することができます。畑の一角や、畑の脇のちょっとしたスペースに植えておくだけでも、ちゃんと芽が出てきますから。無理をして広い面積を作る必要はなくてできる範囲で続けていけばいい。そういう形でも、きちんと生活を支えてくれる作物だと思っています」

「三宅島からアシタバを出荷する場合に基本的には船で運ぶしかありませんから、船が欠航してしまうとそれだけで大きな問題になります。冬場は気温が低いので多少時間がたっても葉はまだもちますが、夏や梅雨の時期はそうはいきません。例えば、朝の収穫時に雨に少しでも濡れてしまうと、いったん乾かしてもどうしても水気が残ってしまいます。その状態で船が欠航してしまうと、アシタバの葉がだんだん粘ってきて、黒く変色してしまうのです。そうなると商品として出せなくなってしまいますから、本当に気を使います。島で作るということは、天候だけでなく、船の運航にも大きく左右されるということです。そういう意味では、本土とは違う難しさが常にあると思います。価格の面でも苦労はありました。手間をかけて出荷しても市場で一箱2千円くらいになってしまうと、箱代や袋代、そして船の運賃を払ったあとには生産者の手元に残るお金は本当にわずかです。それでは、高齢の生産者が長く続けていくことは難しくなります。ですから『この値段では生産者が続けられません』と市場に何度も足を運んで話をしました。売れることも大事ですが、生産者がきちんと暮らしていける値段でなければ意味がないと思っています。島の農業を続けていくためには、そうしたことをきちんと伝えていく必要があると感じていました」

東京から南へ約180kmの位置にある三宅島。
物資の流通はほとんどが船に頼っている。

「ゴマ和えにしたりシーチキンと和えたり。ナムルやおひたしにもできますし、天ぷらやかき揚げにしてもおいしいです。炊き込みご飯に入れることもありますし、納豆に刻んで入れて食べるのも私は好きです。特別な料理でなくても普段の家庭料理の中でいろいろ使える野菜だと思います。そうした食べ方を多くの人に知ってもらいたいと思ってレシピをまとめたパンフレットを作ったこともあります。日常の食卓のなかで自然に使えるところにその魅力があるのではないかと思います」

後継者不在「それでもつなぎたい」火山育ちの健康野菜

「アシタバの出荷を始めたときは15人ほどの生産者でスタートしましたが、今は5人になっています。やはり一番大きいのは高齢化です。私自身も始めたころは50代の後半でしたが、今は77歳になりました。当時60代だった方たちは80代になっています。なかには亡くなられた方もいますし、体力的に畑の仕事を続けるのが難しくなって、やめざるを得なかった方も多いのです。やはり、後継者がいないことを一番心配しています。私がやめてしまったら、この先どうなるのだろうか。このままでは、三宅島のアシタバそのものがなくなってしまうかもしれない。そんな不安もあります。私は後2年で80歳。今のような形でずっと続けていくのは、やはり簡単なことではありません。でも、代わりにやろうという人がなかなか現れないので、そこが一番の悩みです」

「私は、きちんと取り組めば十分に成り立つ仕事だと思っています。アシタバは安定して出荷できる作物です。しっかり作って出荷すれば月に30万円くらいの収入は十分可能です。なかには、50万円近く稼いでいた人もいました。ただ、そのためにはやはり覚悟が必要です。畑の草取りから収穫して荷造りをして決められた出荷先にきちんと届ける。そういう作業を毎日続けていかなければなりません。契約先がある以上、今日は出せません、というわけにはいきませんから責任も大きいのです。単発の仕事ではなくて継続して供給していく仕事です。その責任をきちんと引き受ける覚悟があれば、アシタバは十分に生活を支えてくれる作物だと思います。島の経済を外とつないでくれるアシタバが果たした役割はても大きかったのではないでしょうか」

「帰島して農業に関わってみて思うのは、アシタバは暮らしの土台ということでした。安定して出荷できるし、安定した収入につながる。年を取ってからでも続けることができますし、広い畑がなくても、少しの面積でもきちんとお金になる。そういう意味で生活を支えてくれる作物だと思っています。だからこそ、できれば誰かに引き継いでほしいという思いがあります。この20年間、私一人でやってきたわけではありません。生産者の皆さんがついてきてくれたからこそ、ここまで続けてくることができました。中にはもう亡くなられた方もいますが、その方が生前に『おかげで何百万円も儲かったよ』と言ってくださったことがありました。その言葉は今でも忘れられません。本当にうれしかったですね。もちろん、アシタバは江戸東京野菜の一つとしても大切な作物です。でも、私にとっては、それ以上に三宅島で暮らす人たちの生活を支えてきた野菜だという思いが強いのです。だからこそ、この先も島でアシタバを残していきたい。そのためにも、誰かにこの仕事を引き継いでもらえたらと思っています。それがいちばんの願いです」

出荷準備に忙しい廣井さん。収穫してアシタバの重さを計り、
袋に入れ、段ボールに40袋を詰めて出荷する。